多重について。考えたこと。(11/20追記)

VOID -シン・ガイアズ ver.-

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多重

 私たちは他人や自分自身から攻撃される。だから多重になることを選ぶ。そうすることで自分を守れるからだ。

 

 自分を守る=自分の本質的な要素を隠すことだと思う。この世に生まれて元々もっているものを、生きている間に攻撃(否定)されて、私たちは隠すようになる。

 

私は自分を守るためにシールを貼る。攻撃された分だけ・本当の自分を隠した分だけ私は分厚くなっていく。シールは大体誰かに剥がされる運命だ。タンスに貼られたシールや反社会的なステッカーのように、私が貼ったシールも剥がされる。それはつまり、守ったはずの自分の要素をその上からまた攻撃されるということで、破れた守りを補強するために、もう破れてしまわないように、私はさらに厚く重ねる。

 そのようにしてできたのはシールをたくさん重ねてできたマスクだ。それを使うことで、私は自分を守るのだ。

 

 

 

 

 

②  自分自身を隠したい時、人は多重になっていく。

 なぜ隠したくなるのか。それは、自分の本質的な要素は恥ずかしいかと認識している(するようになる)からだ。

 一体いつから恥ずかしい・隠したいと思うようになってしまうのか。

 まず、本質的な自分の要素とは、

☆自分が本当に思ってること

☆まだ人に影響を受けていないときの意見

☆自分の生まれ持った顔や体の特徴

などのことだ。

それらは多分。攻撃された時に人に見せたくないと思い始める。

 

その時私はその部分を隠し、守りたいと考える。自分の身は自分で守るしかないと知っている。

 

 

 

 

 

③   自分を守りたい時、私は多重になる。

 守りたい部位がどんどん厚くなっていく。

 

何で守る? シールだ。

 

 

幼さの象徴だと思う。

幼さ=『知らない』『無知』👉私自身による、私への、知らないフリ、気づかないフリをしたい

 

 例えば顔の悪口を言われたこと。例えばスカートの中を盗撮されたこと。

向き合っていないわけではない

けど、そのときの記憶はなるべく隠したいし、思い出したくないし、かなり知られたくない。

 

知らないフリをしたり、気づかないフリをしてれば、それがあったことを忘れる。

 

向き合っていないわけではない

 攻撃をするのは何も他人だけではない。自分で自分を傷付けたりする。

だからもっと、かわいさ、幼さで、上から貼り付けていく。

向き合っていないわけではない。傷つけようとするとキラキラシールがかがやいてくれるから攻撃はしないでおく。向き合ってないわけではない。なんとなくメイクと似ていると思う。

 

しかしシールは時間が経てば劣化する。その上他人からは迷惑だと言われるだろう。

 お前らがが攻撃したくせに!

他人は私のシールを剥がしてくる。だからもっと上から貼っていくのだ。

 

しかし!向き合っていないわけではない!

顔に貼り付けられたシールを見て思う。

 

「プロレスのマスクみたいだ。」

 

私はリングに立ちたいのだ。

ブスなこと、盗撮されたこと、部屋に知らない男性が入ってきたこと、私は悪くない。

 

 次攻撃されても、今まで貼り付けたシールたちが守ってくれるだろう。

 

人は子供を攻撃できない。

というかしないように極力努める。

純粋無垢なものを守ろうとする。

 

だから私はシールを利用するのだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

👹シールを扱うこと 

幼稚

過剰

実家感

縦横無尽さ

 

知らなさ

 

 

子供は保護の対象

その清純(少女、処女性)

 

擬態か。

 

 

ちなみに私は家具にシールをめっちゃ貼るタイプの子供ではなかった 何でだ?

 

 

 

⭐️2023,11/20 追記

予備校の先生からコメントもらって書き直しました 

私はかなり表面を意識しすぎているから内面を考えなくちゃいけない。シールの下で行われていることこそ多重であること

私の文章はどんどん関係ない方向へ話が進んでいってしまうこと。

友人に言われた 怪我を覆い続けてると内側はどんどん腐っていくこと。

 

 

①私は自分自身から攻撃される。

 その時わたしの中には加害者の私と被害者の私が両方同時に存在している。

 自傷行為をする時私は私に対して加害をするが、それと共に被害を受ける私もいる。傷つけているのは私なのに痛いと思うのも私だ。かわいそうだと思う私もいるしその一連をただ見ている私もいる。

 

 数えきれない私が私の中にいるのに、側から見たらただの個として認識される。だからその多重を全部認識してあげられるのは自分しかいない。

 

 でも、多重だからと隠してしまう自分がいる。

隠すから多重なのではなく多重だから隠す。それは自分の多重に向き合ってあげられていないということだ。それに気付けた私がするべきことは自分の内の加害と被害に目を向け、表現させていくことだろう。

 

 

 

 

②どんな場面にも“する”私、“される”私、“考える”私、“見る”私がいる。

 それを認識できるからこそ人間であるのかもしれない。(ブランコは多分考えていないため)

加害をするのも私で。それをしようとする理由を作り出すのも私自身であったりする。

 

人はみんなその内側で起きていることを隠そうとする。それはいわゆる二面性とか、私のいったマスクや、仮面とかだ。でも別に隠さなくていいと思う。みんな同じだから。だから私は表現をしなきゃいけないんだなーと思うのだ!

 

 

内側で被害と加害があって。傍観してる人もいて、それ自体を隠そうとする。

なんとなく戦争と似てるなーと思う。ガザ地区は壁の内側にある。

世界で起こっていることと自分の中で起こっていることは同じなのかもしれない。自分の中の小さい戦争に目を向けなきゃいけないし、遠い話であるような戦争もじぶんごと…(自分事という言葉はなんとなくきらい)として捉えなきゃいけないんだと思う。